映画『インターステラー』とラザロ 〜あるクリスチャンの妄想

映画『インターステラー』とラザロ ―― あるクリスチャンの妄想
音楽脳の自分でも、なにげに引き込まれた
世間様では、この作品を理解し楽しむためには天文学、天体物理学、理論物理学的な脳みそ、そして相当なSFの知識が必要だと騒がれていました。なにせ製作には本物の理論物理学者が関わっていて、劇中に出てくるブラックホールの映像が、後に学術論文の参考になったとかならなかったとか。そんな噂を聞けば聞くほど、「自分のような人間が観てもいいものだろうか」と二の足を踏みそうになります。
ところが、父と娘の物語として、人類の存続をかけた壮大な宇宙の旅の物語は、天文学も天体物理学も理論物理学もさっぱりな音楽脳の自分でも、これがなにげに楽しめてしまいました。
理解できない部分は雰囲気で押し切る。むしろ音で感じるタイプには、ハリウッドの巨匠フィルムコンポーザー、ハンス・ジマー(Hans Zimmer)が手がけたあの重厚なパイプオルガンの調べがまるで宇宙そのもののように鳴り響いて、胸に迫ってくるのです。理屈ではなく、音が連れて行ってくれる。たいした作品です。
ググって、ようやく腑に落ちた
鑑賞後、頭の中に残った数々の疑問を「インターステラー 解説」でググって、その筋の方々がブログ上に書いてくださった解説を拝読しました。すると「あ〜!そういう事でしたかぁ〜」と、まさに目からうろこがボロボロと落ちる落ちる。
あの場面はそういう意味だったのか、あのセリフにはそんな伏線が張られていたのか。それなりに納得できたので、今度は答え合わせをしながらもう一度観たくなってしまいました。一度で分からないからこそ、二度三度と人を惹きつける。よく出来ているものです。
「ラザロ計画」という言葉に反応
さて、信仰を持つ私がピクリと反応してしまったのが、「ラザロ計画」という言葉でした。土星の軌道上に現れたワームホールを通じて、新たな銀河系の惑星へ人類が移民するという、まさに人類最後の希望をかけた計画。その名が「ラザロ」だというのです。クリスチャンの端くれとしては、この命名を聞いて聖書のことを思い浮かべないわけにはいきません。
この「ラザロ計画」という名は、新約聖書の中でイエス・キリスト様が死んだ"ラザロ"(Lazarus of Bethany)を生き返らせたお話から来ているのか。それとも、同じく新約聖書のルカによる福音書16章19〜31節に記されている"金持ちと(乞食の)ラザロ"(Rich man and Lazarus)から来ているのか。気になって仕方がありません。
巷では、死から甦った"ラザロ"から命名されたという説が圧倒的のようです。
確かに、滅びゆく地球から人類を甦らせる計画という意味では、こちらのほうが筋は通っています。死んで墓に葬られた者が、再び命を得て歩き出す。絶望の淵にある人類が、新天地で生き直す。なるほど、ぴったりです。
けれども、ひねくれ者の私は、あえて"金持ちと(乞食の)ラザロ"のほうではないかと、いや、そちらのほうが夢と希望があっていいかもしれないと、単純に考えていた次第です。あの譬え話では、生前に苦しんだ乞食のラザロが、死後にアブラハムのふところで慰められる。地上では報われなかった者が、向こう側でようやく安らぎを得る。
どんなに地球が立ち行かなくなっても、その先にちゃんと約束された場所がある。そう思えるなら、こちらの解釈も悪くないではありませんか。まあ、製作者がそこまで考えていたかどうかは、神のみぞ知る、ですけど・・。
ワームホールの先は、神の領域
自分は四次元以降の世界もまた神の領域であると信じているので、銀幕の上で宇宙船がワームホールを駆け抜けたあの瞬間から、登場人物たちがとてつもない聖域に足を踏み入れてしまったように感じました。人間の理屈や物理法則が通じなくなる場所。そこはもう、人智を超えた神様の庭なのかもしれません。
物語の終盤、時間を超越した五次元の世界に入り込んでしまった主人公のお父さん「ラザロ計画」の宇宙飛行士(Matthew McConaughey)が、三次元の世界を垣間見ながら、必死に娘との交信を試みるシーンがありました。時間も空間も自在に折り重なる不思議な空間の中で、彼は過去の自分たちへ、愛する娘へと、必死にメッセージを送ろうとする。あの場面には、理屈を超えた何かがありました。
五次元をさまよう、いつかの自分へ
人は死ぬまぎわに、遠い昔の記憶が走馬灯のように次々と脳内を駆け巡ると言います。あれもまた、時間の枠を超えて自分の人生を一望する、ささやかな五次元体験なのかもしれません。
ふと思ったのですが、いつか自分が脳死判定を受けて、ラザロ徴候(脳死と判定された患者が自ら手足を動かす現象を指す語)が表れたその時。私の霊もまた、あの映画のように五次元の世界をさまよい、自分が歩んできた人生をゆっくりと振り返るのかもしれない、と。
そして願わくは、そのときと、自分の生涯をバカボンのパパのように「これでいいのだ〜・・」と確認することができたらいいのにな、と思った次第。